■大東流の承継について

大東流合気柔術の創始者は、清和源氏の嫡流新羅三郎義光となっている。
新羅氏はのちに武田と改姓、武田信玄の父信虎は第二十四代、武田信玄は第二十五代宗家であった。
大東流合気柔術は、剣柔一体の秘技を蔵し武田家代々一子相伝のまま、門外不出による武憲のもとに
その独特な秘技は片鱗すらうかがうことが出来ず、のちに会津藩の御止流としてその名高く世人渇望の的であった。

中興の偉傑、第三十五代大東流合気柔術総務長 武田惣角源正義大先生に受け継がれたこの秘技は、
昭和七年当時、護身用にこの古武術を教えられたことがやみつきとなり、以後、直系の弟子として
身の回りの世話をしながら鍛えられ、十年後には秘伝奥義免許皆伝、そして我が国で唯一人“秘技の原理”を
口伝された後嗣山本角義(留吉)へと受け継がれた。

山本先生は、修行者としては常に恩師武田大先生を尊び、その功績に対して、心から謙虚な態度を崩さなかった。
また、逝去する十日前まで北海道滝川町の山本家に一緒に暮らしていた。
武田大先生の遺言により、遺品のうち旧会津藩主 松平容保公より拝領の紫の羽織の紐と行平の刀一振り、
古備前焼の湯呑み茶碗、愛用の品々、そして巻物を受け継ぎ、さらには、我が国で唯一人、
「惣角」の“角”と武芸名「源正義」の“義”との二文字を許され、“角義”と名乗ることと、加えて
「総ての主になれ・・・」という意味で“総主”を名乗ることを同時に許された。

昭和十七年五月吉日、第三十六代 大東流合気柔術 総主 山本角義先生の誕生である。
また、武田大先生が山本先生に免許皆伝、そして総主を許す際に「山本君、わしはお前の前に免状を出している
ものがいる。あれは失敗だった。許してくれ。」とも語っている。

これまで、心ある大東流合気柔術関係者以外、はっきりと語らなかった武田大先生の後継者 山本先生についての
記録を明らかにすることは、正しい大東流合気柔術の真の姿を理解するうえで欠かすことの出来ない重大なこと
であり、さらに云えば、山本先生の武術に対する姿勢を理解しないものは、先師の残された武術の真髄を
知ることは無理である。

大東流合気柔術を極めるために、我々が絶対忘れてはならないことがある。それは、武田大先生も山本先生も共に
正しい技術を極めた人達であって自然の道理、原理に素直に従った武術家であったということである。
山本先生は武術に対して真に純粋で正直であり、その技には全く“虚”が無く、「真実」そのものが行われていた。
よって、世間に広く見られるような弟子が自ら飛んで受け身をするようなものは武術とはいえないのである。
山本先生が、武田大先生から受け継いだ大東流合気柔術は、「他人に怪我をさせず、自分も怪我をしない。」
という護身術である。

山本先生は、その才能を認められ「お前なら自分の後嗣ぎになれる。」ということで鍛えられた。
夜中、睡眠中のところを起こされ「昼間忘れていた技を思い出したので教える・・・。」といっては
稽古をつけられたことも度々あった。

一子相伝、門外不出という武憲のもとに行われていた大東流合気柔術は、武田大先生と山本先生が
出会ったことで新しい転機を迎え、総てが山本先生に受け継がれた。


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